東京三菱銀行
柴田 幸代 2組(東京)
私の履歴書ざっくり簡易版。まだ10代の若者が人生とは、などと考えたこともないと思いますが、かけがえのない、一度しかない、やり直しもきかない、でも結果として自分の人生に他ならない人生について今から少しでも向き合ってもらえたらと思いお話しします。
5歳のときにやんちゃが過ぎて大怪我をし、破傷風にかかり一度目のピンチ。手術は成功するが出血多量と体力の消耗で危篤状態に。もうあと2時間の命といわれるが一命を取り留める。2度目は、大学に入ったばかりの頃に、事故を起こし骨折。頭から落ちてたらそのままお陀仏だったらしい。懲りない3度目が1年前の1月末の帰宅直後、突然くも膜下出血で倒れ救急車で運ばれる。これまた打つ手がないといわれたが、たまたまアメリカ帰りの特殊技術を持ち合わせた先生が救急病院と連携している病院にいて、うまくその先生と連絡が取れ執刀をしてもらえる運びとなり九死に一生を得る。今こうしているのだから手術は勿論成功。
1年ダブった4大卒、地方出身者(自宅からの通勤者のみ可のご時世であった)。女性。この組み合わせが如何に私の就職の妨げになった事か。持ち前の行動力と物怖じしない性格で、リクルート雑誌で良さそうな企業を物色し、失礼なことに電話で直接人事部就職担当者につないでもらい交渉。そのまま門前払いも多数あり。それでもメゲずに面接までこぎつけ試験を受けさせてもらえる数社に出会う。結果、先生と銀行員には死んでもならないと豪語していた私が落ち着いた先は、何とそのうちの一つである銀行員。辛い人生の始まりかと思いきや。。。
外国為替の専門銀行。当時は女性のトップ、男性もトップ5には入っていたほどの人気企業。配属は外為センター(当時為専と呼ばれていた)で輸入課へ。輸入業者の輸入書類作成のお手伝いや海外銀行とのやり取り。だんだん不得手になっていった英語の世界に引きずり込まれて、四苦八苦。
当時は珍しかった帰国子女や海外留学経験者、海外勤務帰りの人達に混ざって、超ドメスティックな私がいきなりグローバルに。それでも、アカデミックな雰囲気と女性を活用してくれる社風はとても居心地が良かった。TVドラマによくあるいじめもなかったし。その後、輸出を担当し、本店、支店へと異動する。
支店で漸く銀行員らしい仕事について、初めて、「これが私の嫌っていた銀行員」か、とようやく実態について確信する。毎日大量の現金を目の当たりにし、現金が現金に見えなかった。ただの紙の塊や鉄やアルミの塊。ごみも同然。実際そういう風に見れなければ手をつけてしまうのでそういう意識に自然にならなければいけないのですが。その後、支店でも珍しい海外渡航者のためのサポート業務を担当。「お留守番サービス」という可愛い名称の主担として、ちょっとだけ、またグローバルに逆戻り。ここでは生意気ではっきりものをいう性格がたたって初めていじめなるものを経験することに。
こんな生活もう嫌、と思っていたら転勤命令。次は外国人が日本の株や債権に投資をするお手伝いの仕事に。またまたちょっとグローバルなお仕事ではありましたが、日々のお仕事は在日の証券会社の人達と電話で約定内容の確認をするのが仕事。耳は痛くなるは、喋り続けで喉は痛いは、肩は凝るはで、職業病になりそうだった。外国人投資家がわざわざ日本の市場に投資をするのだから、其れも一般人ではなく所謂機関投資だから、「玉が大きい」、つまり一つの取引単位が大きいのです。売るのはお金が入って来るから良いのですが、買うのは大変、口座にお金が無ーいという状態もしばしば。海外だから時差もありますから、朝早くとか夜遅く、自宅から、彼らの朝を待ったり、帰宅を待って(日本風に言えば夜討ち朝駆けですね)「お金をよこせ」と国際電話をしたこともしばしばでした。この頃に心配のし過ぎで十二指腸潰瘍になり今でも気になることがあったりストレスがたまるとしくしく痛みます。そんな生活を数年も続けたら、また嫌気が差してきて、もう辞めるか転勤かどっちかだ、と真剣に思っていたら更に大変なことに。三菱銀行と合併が決定したのです。
対等合併との話だったので、環境が変わればまた新しい何かがと期待したが、蓋を開けてみたら全く違っていた。実は吸収合併。女性の扱いは結婚までの足掛けで昇格などは必要なし。全くの男尊女卑。内緒の話、○○○○も。
*** 続きは、講義で。 ***
ようこそ先輩を終えて
2組 柴田 幸代
始業10分前に始めて、終業10分後に終了しました。原稿88枚準備して、はしょってはしょって50枚。低学年の生徒さんが多かったので話を変えましたが、思っていた事の1/3も話せなかった。でも一生懸命語ったつもりです。聞いていて誰か一人にでもどこかで何かに響いていたら、それだけで充分、嬉しく思います。
自分の高校時代とは随分時代も変わっているのでしょう。生徒が大人しくなった様に思いました。我々の頃はもっと斜に構えていたり横を向いたり、ちょっぴり反抗的な態度で自分の存在を表現していたところがあったと思います。自分にもありましたし。それでも藤島高校生はみんな素直に育っていると感じました。このまま育っていって欲しいです。
学校の伝統や文化は脈々と続いてゆくもの、藤島高校が相変わらず素晴らしく私にとって自慢の藤島高校であり続けている事が再確認できて良かった。語るチャンスを与えてくれてありがとう。今日は心地良い疲労感と充実感で一杯です。
ようこそ先輩
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