私が今の事務所で、自分なりのコンセプトを基に、さまざまな作品を世に出すことができるようになったのは、東京でのバブル経済が最盛期の頃で、誰もが一攫千金を夢見た昭和末期のあの頃でしょう。土地さえあれば、次から次へと設計の依頼が舞い込んできた時代でした。不思議なもので、忙しくて時間的にゆとりのない時ほど、いろんなアイデアやイマジネーションが浮かんできたものでした。東京都内や近郊都市での商業ビル、ファッションビルを始め、地方や海外でのリゾートホテルやリゾート開発。さまざまなプロジェクトも数あまた世に発表することができました。
建築家はとかく、いろいろな場所や建築を見て、いろいろなことを体験してこそ、クライアントにすばらしいアイデアを提案できる、という確信の元にお金と時間さえあれば(時間はあまりなかったが・・・)自分に投資して、国内や海外の建築を数多く見て回りました。今では、到底かなわない時世となってしまいましたが、少なくとも、今の自分の建築作品創作のための基盤となったのは、この時期の経験が大きく影響しているのはまちがいありません。
その後、バブル経済も崩壊して、事務所での設計の仕事の内容も一変してきました。一時は、スタッフへの給料と仕事量のバランスが崩れ、事務所を畳もうかと思い悩んだ時もありました。が、ここに私にとって一つの転機が転がり込んできました。山中湖畔での高級ホテル建設の設計競技コンペでの設計獲得。さらに次いで、青森でのスポーツ産業文化センター建設の設計競技コンペでの最優秀賞受賞。東京と青森と山梨での一週間サイクルによる3重生活が始まりましたが、以前から自分の内在に潜んでいたものを、自由奔放にこれらの作品に注ぎ込む事ができ、自分で本当に納得ゆく作品を送りだすことができました。
学生の頃、学友達と酒を飲みながら建築について毎日論議していた時、生意気にも解りきった口調で、自分は、自分のために自分の好きなものだけを設計していくんだ、などと論ぶっていましたが、世の中で揉まれていくうちに、自分の信念がことごとく打ち砕かれていくのを少なからずとも感じとっていた自分に、大きな自信と確信を持つことができたのも、この頃でした。
そのあとすぐに私に大きな影響を与えたのは、建築界の巨匠「黒川紀章」との出会い。おごり高ぶっていた自分への戒めと共に、建築作品創作への考え方や想いも、少しずつ変化していく自分に気づき始めました。
今現在、こうして、多くの作品を世に発表できた喜びと、自分に課せられた多くの難題を背負いながら、今一度、足を止めて再考し直す時期がきたように思います。「個性的なデザインは唯一許される建築家のわがまま」という言葉を、常に胸の内で肯定し続けてきた自分を今後、どのようにコントロールしてゆくのか、又クライアントにとって本当に喜ばれる建築とは、一体どういったコンセプトの中にあるのか。
私も原点に戻って、足元を見つめ直し、今後建築家としての自分の存在意義を見つけ出す意味で、再出発点に今、立ったような気がしています。建築家 馬渕 邦夫
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